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先逹

2016/11/29

 忙しい秋でした。
 予々行きたかった場所や展覧会が重なってしまったからです。全てクリアしてしまったら満足感が飽和状態になってしまいました。
 忘備録代わりに並べてみますと、まず熊野にいきました。熊野速玉神社に深い想いを寄せていたからです。目的の「神宝館」の拝観は残念ながら時間切れでした。それでも…木々に囲まれた清浄な空気の境内の中で、天空に浮かぶ淡い下弦の月を仰いでいると、不思議に力が湧いてくるのを覚えました。
 世界遺産の熊野の山は急峻で峰々が重なって見えます。その山裾はストンと蛇行する熊野川に落ちる三角形の山容です。その連なる山また山をバスで走って熊野三社を巡りました。日和に恵まれて古道を歩くと体調不良がすっかり癒されました。その余力で奈良の正倉院展に向かいました。正倉院展は秋の恒例行事になっていますので外す訳にはいきません。
 そしてついに香袋の解き袋の展示に巡り合いました。
 正倉院の御物には「仕覆」につながる袋の進化過程として「香袋」の存在があったはずなのです。自著「仕覆ものがたり」で参考にした額田巌氏の著書「包み」p112には正倉院の巾着系の香袋の写真二葉があるのです。ところがどこを探しても正倉院の香袋の図版を見つけることができずにいました。孫引きになりますから香袋の写真を用いることは不可ですし、香袋の話も封印しましたので欣喜雀躍です。
 さらにもう一つ、熊野速玉神社には、現在は国宝の石帯(革製)を包んだ御物袋というか…明徳一年(1390)足利義満時代の古記録に出てくる錦の袋があるのです。これはが仕覆形袋ではないので、この時期にも仕覆形の袋はなかったのだと推測をしている資料の一つです。
 今回の正倉院展には石帯と同種の玉帯(革製)が柳箱に納められているものが展示されていました。正倉院には数多くの楽器等があり、それぞれがいろんな形の袋に収められています。毎年、何かしらの染織品の袋類は公開されてきました。ペルシャ錦の琵琶袋はその筆頭でしょうか。
 遡ること天平正徳八年(756)、光明皇后が献納された玉帯は袋ではなく籠状の箱に収納されていたということは、やはり当時、仕覆形袋の創案はまだなされていなかったのだと解釈することができました。
 この二つの展示物を拝見できたことは意義のある正倉院展拝観になりました。終わってみると、熊野と奈良の旅は思いがけずに「仕覆ものがたり」を巡る旅になっていたのです。
 その翌週、京都は大徳寺の塔頭二つ「弧篷庵」「真珠庵」にある、「忘筌」「山雲床」「庭玉軒」の三つの茶室を拝観してきました。八景の庭が紅葉に染められているなかで、茶室・数寄屋研究の第一人者・中村昌生氏の案内という贅沢でした。
 双方非公開の塔頭ですが、特に「弧篷庵」は小堀遠州により創立された茶室で、それ故か幾多の茶道誌、美術誌、婦人誌等々に取り上げられて、茶人には憧れの茶室でもあります。
 今回初めて…陰翳礼讃の茶室の点前座に深として座していると、書院造りの書院茶から派生してきた小間の茶室というものが…室町、安土・桃山、江戸を経て…侘茶と続いてきた推移が…机上では計れない臨場感で迫ってきました。
 この旅もまた無意識に「仕覆ものがたり」を巡っていたのです。
 巡り合いは早くも遅くもなく…満ちるが如く…今まさに…奥へ…一歩でも奥へ…好奇の心が尽きずに…奥へ…またその奥へと誘われている妙を感じています。

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