裂地

2018/04/18

過日、銀座の某所で解袋の裂地等を二十数点ほど、拝見させていただける僥倖にあずかりました。古美術に造詣の深いご店主で…多分興の赴くままに落手されたものだとおもいましたが…実に興味深く、想像以上に素晴らしい裂地でした。

 例えば最初に拝見した裂地は三重の和紙に包まれていて表書き右上に朱字で「二百八十七」と記され、中央に「上桺袋切底とも」と墨書で記されています。次に藍地の金散らしの化粧紙、さらに和紙包みで、開いた右側に傳来が記されていました。
 「傳来
   建武年中
   後醍醐天皇長楽寺御寄附られ
   御賜し裂也

    小遠□門人上栁甫に可所持し
    秘蔵茶入れの袋として家寶
    とす以後世に称上栁裂にて双びこし
    稀絁云いし」
古文書の読み違いはお許しいただくとして…後醍醐天皇の御代は(1317-38)です。歴史的混乱の時代で鎌倉幕府が終焉して足利尊氏が室町幕府を興した時代でもあります。

ここで裂地を調べてみますと「七曜星紋に九龍紋」様です。
同種の裂地に「雲山金襴」という明代の裂があります。これは「雲山肩衝茶入」に添えられていた仕覆裂で、「雲山」という僧の所伝の裂として紫地に共色で模様織出の裂であったようですが、本歌裂とされる金襴の袋は天明四年(1338)に松山城で焼失しています。
拝見の裂地は茶地に模様織出で「上栁金襴」として上栁甫斎が所持していたとされています。二種類とも同種の裂地で、今でいえば色違いということになるのでしょうか。当時は所有者の名前がそのまま裂地名称になった例が多くみられます。情報伝達のない時代ですから「さもありなん」とおもいます。
また辞書記載には「明時代」の裂とありましたが、後醍醐天皇の時代…中国は「元時代」でした。焼失したとされる天明四年も「元時代」です。明時代は元時代の後ですからちょっと可笑しいですよね。
こうして一例だけですが古い資料はいろんな情報を内包していて様々なことを示唆してくれる貴重なものです。

久しぶりに創造力を奮起させる材料を拝見させていただけて…私にとって仕覆はやはり至福そのものなのでした。

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