ひきこもごも

仕覆もよう

2019/03/22

 拙書「仕覆ものがたり」を書く動機の一つは茶道の方々のバッシングでした。
 1998年に「仕覆を愉しむ」上梓して以来「木綿なんかを使っている・茶入れ以外のものを包んでいる」等々のご批判が耳に入ってきました。
 初めから、古綿布の維持・保存が目的で仕覆形の袋の意匠を用いたのであって、他意はなかったのです。「気の向くままに遊んでいた」というのが正直な感想です。以来、今日まで紆余曲折がありましたが、この袋に関わったことで世間の間口はぐぅ〜んと広がりました。
 ですが、今でもまだ皮肉を含んだ書き込みをネット上に看ると…苦笑するというか…いきかたが違うので仕方がないなぁと思います。
 技術だけが先行して袋の本来を見失うようでは魅力を感じることができません。器を補佐して相乗効果で一つの完成形になる「置きつけて観せる袋」ですが「見世物」ではないはずで、袋だけが一人歩きをしても困ります。
 個人的には古綿布の持つ「布の力」を仕覆という形で表現している「創作仕覆」という事でしょうか。ですから包めるものは百円のガラス瓶でも可なのです。
 包む中身より古綿布の絶える事を惜しんで表現することに興味があり、箔置き・加飾と可能性を探ってきました。
 しかし古綿布にも素材的に制限と限界があります。
 また「仕覆ものがたり」のその後の研究においても超えられない壁・行き詰まりがあります。それでもやはり転んで起き上がる時には「仕覆」になるのです。

 茶道の世界でもなく、職人でもない自由気ままな表現の方法として「裂好き・物好き」の嗜好の行き着く先はただ「袋を作る・識る」を繰り返していく、そこに尽きるのです。双方の作業を通して与えられるものの妙味・滋味は人智を超えるものがあります。それこそが「しふく蟲のあり巣」の所縁なのです。