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ひきこもごも

台風一過

2017/10/28

仕事に向かう車窓から見た久しぶりの秋の空には、まだ地平に台風余波の裳裾をたなびかせた大気の動きがありました。この秋も変な気候に左右されました。
そんな中…私たちの「いろいろな仕覆たち・習作展」を無事に開始、終了することができて安堵しました。
近隣はもとより遠方からお運びいただいた来場者の皆々様にこの場をお借りして感謝を申し上げます。また、いろんなアドバイスや感想・ご批判を頂戴して全員で謙虚に学ばせていただきました。
展示会の喜びは日常の扉を開放して外部と交流することでもあります。多分参加者の一人、一人が現場で体感したそれぞれの想いを物語として長く記憶に留めることだと思います。この展示会を最後に教室を去って行かれる方々もありその「会者定離」「一期一会」を改めて認識・自覚させられた展示会でした。
秋の物悲しさは加齢も加わりますが、すべて大小の身辺に起こる事象を台風一過の爽やかさに重ねて駆け抜けてまいります。

来場者の皆さま、参加者、並びに教室に通ってくださっている皆さま、この展示会を補助していただいたすべての皆さまに、責任者として心からのお礼を申し上げます。ありがとうございました。

ひきこもごも

初秋

2017/09/07

この夏の気候は変でした。変でしたが、なんでもないように暮らしている人たちを見ると「強いなぁ〜」と嘆息します。通っている体操教室は月に二回参加できれば上出来ですし、それすら続けていく体力に自信がなくなってきました。加えて、頭の中身は加齢によるグレーゾーンで不安が増殖中です。
世間にはお手本にしたい上質な高齢女性たちが頑張っておられるというのに…です。その精神のひとかけでも分けていただきたいものですが…これがまた「できが違うのよね」と嘆息して終わりです。
仕事もニコニコしてこなしていますが表面だけです。帰路は疲れているのでいつもの電車を無意識に乗り継いで、無意識のままにとりあえず、自宅にたどり着くという有様です。寄り道をするゆとりはありません。
しかし仕事をしなくては生活が成り立ちません。仕事ができることはどんな意味においてもありがたいことです。
仕事も正式なお勤めをしたことがないので働き方がわかりません。
ですから無手勝手に自分流で、これが正解なのかどうかもわからないままに歳月を過ごしてきました。「こんなことでいいのかしらん」と最近思うようになってきましたが、振り返るには命の猶予がありません。
なんだか前に進もうとしても気力が湧きませんし、過去も「勿体無い時間の過ごし方だったなぁ〜」とまた嘆息しきりです。
いやいや、だからいけないのです。この嘆息の元である「来し方行く末方」を払拭して「貧打の一灯」でもできることを続けていかなくては始まりません。強制的に用事を作ることも大事です。他人事でも…ひいては自分事としてでも…。
で…また生徒さんの習作展をさせていただきます。
今回は「いろいろな仕覆たち」と題しました。
このH.Pをご覧くださるみなさま…「いろいろな仕覆たち」に会いに是非、足を運んでくださいませ。日本独自の袋の様々な有りようが、作り手の思いを込めた仕覆たちが、みてくださる方の「こころの眼」に留まることがあれば一同、嬉しく思います。
その上で「下手くそ」だの「なんなのこれは」「なってないよ」等のポカポカに「喝」を入れたご批判を頂戴できたらさらに幸いです。そのご批評を次のステップに繋げていくことが展示会の趣旨の一つでもあります。
下記ギャラリーに寄り道を…よろしくお願いいたします。
アートインギャラリー

ひきこもごも

  
 
椿

2017/02/28

  二月は二十八日しかありませんから、商売人は二月を逃げると言います。確かに逃げるように忙しく過ぎて行きました。忙しすぎたのか何一つ記憶に残っていないというところが、年齢と連動して哀しいところです。「何か心に響くことがなかったかなぁ〜」と手繰ってみると根津美術館の「百椿図」の艶やかな美しさが蘇ってきました。

  椿・海柘榴はツバキ科ツバキ属の常緑樹で、照葉樹林の樹木です。日本内外で近縁のユキツバキから作り出された園芸品種、侘助や、中国・ベトナム産原種の園芸品種を総称して椿と呼称するらしいのです。それでいて山茶花は同じツバキ属でありながら椿と呼ぶことは少ないそうですから、何やら継子いじめみたいですが、例にとると藪椿と山茶花では、藪椿は萼と雌しべを残して丸ごと落ちますが(例外もあるそうです)、山茶花は花びらが個々に散るのだそうです。あれやこれやで、分け入るとどんな事象でも奥が深いものです。

  江戸は慶長の頃、二代将軍徳川秀忠(1579-1632)は殿舎に花畑を作りツバキを初め多くの名花を献上させたそうで、これが江戸ツバキ流行の発祥とされているようです。寛永7年(1630)には僧侶・安楽庵策伝が「百椿集」を、11年(1634)には公卿で歌人の烏丸光広によって「椿花図譜」が著され619種のツバキが紹介されていたそうです。

  根津美術館の「百椿図」は平成7年(1995)に野田醤油ことキッコーマンより寄贈された作品です。この「百椿図」は三河の松平宗家を祖とする藤井松平家四代松平忠国(1597-1659)が、京狩野の祖・狩野山楽(1559-1635)に制作を依頼して描かせたと伝わっています。

  三度目の正直で拝見できた作品ですが、華やかで綺麗に尽きました。美術館では平成二十一年(2009)から翌年にかけて保存・修理を施されて、巻く時の負担軽減のために太巻きにあらためられた二巻です。展示室いっぱいに鮮やかな椿図が繰り広げられて…目に飛び込んできます。その椿群は写実でありながら、幾何学的な意匠と工芸的な手法で旧くて新しい美しさで迫ってきました。難しいことを一切考えずにうっとりと見惚れる楽しさがありました。

  椿は首が落ちることから負のイメージがありますが、茶人は茶花として用います。大きな蕾を珍重して活けます。枝ものが好きな者には蕾も、盛りも、朽ちて落首していくどの姿も愛おしいものです。絵巻の椿は技巧的でありながら現代でも褪せない時代を超える力に溢れていました。

ひきこもごも

新年

 

2017/01/15

 

 新しい年が始まりました…といってもどうも最近は、晴れや褻というメリハリが少なった気がしているのは私だけでしょうか。その分、急き立てられるようにザワザワと見えない包囲網が寄せてくるのは、単に加齢の気のせいでしょう。家族からは「都合が悪くなると歳のせいにする」と言われますが、逆に都合が良いときは「若いから」で済ませます。

 「若いから」で済ませられるかどうかはわかりませんが、教室兼仕事場を借りました。「年寄りの冷や水」です。全く望んでもいなかった出来事ですから「どうなるんだろう」というのが正直な感想です。しかしこうするしかなかった…という選択で年末年始の街を右往左往しました。

 右往左往してわかったことは、たった一つ「若くない」ということでした。

 やることなすこと、動作、判断力が鈍っていて、その連鎖で時間ばかりかかって牛歩です。「こんなはずじゃなかった」の連続です。

 昨年、断捨離をしたというのに…捨てたものと重複する新規の買い物の数々。

 「わぁー」と頭を抱えてどこかに潜り込みたい気分です。かといって物心両面に「援軍」が来ないことがわかっていますから、独りで細々と家内制手工業の規模で仕事場を整えていきます。

 とはいえ、これが案外と面白いことなのです。限られた予算の中で場所を探し、交渉をして…ここまでもドラマが生まれます。で…契約を交わして借りられた部屋の空間を組み立てていく。物事の段取りには全て創作に近い感性が求められます。そしてそれは自分自身そのものです。しかし、残念ながら自分のキャパシティ以上の発想ができないので、己の力量を見極められて謙虚になれます。こうして自分の空間・世界・結界が表れてきます。これからその結界の中で呼吸をして自分を紡いでいくことになります。「結界」と表現しましたが「結界」のキャパシティは無限大のはずです。

 新年…良い響で…良い年になりそうです。

 


ひきこもごも

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才能

2016/12/17

 音楽は詳しくないのですが聴くのは好きです。
 ランランの公演を聴いてきました。
 余談ですが、チケットは6月に予約しました。その数日前にはヨーヨーマのチケット予約日でしたがこちらは取れませんでした。どんな公演も予約の段階で苦労をします。当日に気楽に公演に出かけられるということは望むべきではないのでしょうか。
 さてランランは想像を超える素晴らしさで…その多幸感は今も続いています。本人の希望で当初の案内と違ったプログラムでしたが、プログラムよりその音色に酔ってしまいます。
 プログラムはチャイコフスキーの「四季・1月/12月」で始まりました。
音楽無知な身には馴染みのない曲でしたが、その柔らかな繋ぎ目のない音は心身を浸していきます。彼の手は鍵盤の上を蝶が舞うように縫っていきます。
 その手が紡ぐ音は正確で、聴き手をリラックスさせます。一音一音が、ぶれることも濁ることもなく沸くように会場の隅々まで満ちていきます。
 休憩後のショパンのスケルツォは生で聴くことの至福を感じました。全身が包み込まれるスケールの大きな演奏でした。
 33歳の若さでこの力量です。9歳でショパンコンクールに優勝するという才能は、努力の賜物だとしても天与の資質がその研鑽を後押しするのでしょう。
 加えて「人となり」というのでしょうか。あれだけの繊細でいて、且つ大胆な技法を駆使しての迫力のある演奏で聴衆を魅了するソリストです。その彼が、屈託なく舞台で目薬をさすというパフォーマンスや、アンコールが2曲、3曲と重なるうちにカーテンコールだけで引き返すのかな…と思っていると小走りに戻ってきて、滑り込むように着席をして軽やかに演奏を始めるのです。その気取らない人柄が、完璧な演奏の中に織り込まれているのだろうと思いました。それは半端な人間にはできそうで、決して真似のできないことです。
 一流であることは技術だけでなく持って生まれた天賦の才に愛されたうえに、なお胡坐をかくことなく謙虚であり続けることでしょうか。
 良い演奏会をありがとうございました。
 

ひきこもごも

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先逹

2016/11/29

 忙しい秋でした。
 予々行きたかった場所や展覧会が重なってしまったからです。全てクリアしてしまったら満足感が飽和状態になってしまいました。
 忘備録代わりに並べてみますと、まず熊野にいきました。熊野速玉神社に深い想いを寄せていたからです。目的の「神宝館」の拝観は残念ながら時間切れでした。それでも…木々に囲まれた清浄な空気の境内の中で、天空に浮かぶ淡い下弦の月を仰いでいると、不思議に力が湧いてくるのを覚えました。
 世界遺産の熊野の山は急峻で峰々が重なって見えます。その山裾はストンと蛇行する熊野川に落ちる三角形の山容です。その連なる山また山をバスで走って熊野三社を巡りました。日和に恵まれて古道を歩くと体調不良がすっかり癒されました。その余力で奈良の正倉院展に向かいました。正倉院展は秋の恒例行事になっていますので外す訳にはいきません。
 そしてついに香袋の解き袋の展示に巡り合いました。
 正倉院の御物には「仕覆」につながる袋の進化過程として「香袋」の存在があったはずなのです。自著「仕覆ものがたり」で参考にした額田巌氏の著書「包み」p112には正倉院の巾着系の香袋の写真二葉があるのです。ところがどこを探しても正倉院の香袋の図版を見つけることができずにいました。孫引きになりますから香袋の写真を用いることは不可ですし、香袋の話も封印しましたので欣喜雀躍です。
 さらにもう一つ、熊野速玉神社には、現在は国宝の石帯(革製)を包んだ御物袋というか…明徳一年(1390)足利義満時代の古記録に出てくる錦の袋があるのです。これはが仕覆形袋ではないので、この時期にも仕覆形の袋はなかったのだと推測をしている資料の一つです。
 今回の正倉院展には石帯と同種の玉帯(革製)が柳箱に納められているものが展示されていました。正倉院には数多くの楽器等があり、それぞれがいろんな形の袋に収められています。毎年、何かしらの染織品の袋類は公開されてきました。ペルシャ錦の琵琶袋はその筆頭でしょうか。
 遡ること天平正徳八年(756)、光明皇后が献納された玉帯は袋ではなく籠状の箱に収納されていたということは、やはり当時、仕覆形袋の創案はまだなされていなかったのだと解釈することができました。
 この二つの展示物を拝見できたことは意義のある正倉院展拝観になりました。終わってみると、熊野と奈良の旅は思いがけずに「仕覆ものがたり」を巡る旅になっていたのです。
 その翌週、京都は大徳寺の塔頭二つ「弧篷庵」「真珠庵」にある、「忘筌」「山雲床」「庭玉軒」の三つの茶室を拝観してきました。八景の庭が紅葉に染められているなかで、茶室・数寄屋研究の第一人者・中村昌生氏の案内という贅沢でした。
 双方非公開の塔頭ですが、特に「弧篷庵」は小堀遠州により創立された茶室で、それ故か幾多の茶道誌、美術誌、婦人誌等々に取り上げられて、茶人には憧れの茶室でもあります。
 今回初めて…陰翳礼讃の茶室の点前座に深として座していると、書院造りの書院茶から派生してきた小間の茶室というものが…室町、安土・桃山、江戸を経て…侘茶と続いてきた推移が…机上では計れない臨場感で迫ってきました。
 この旅もまた無意識に「仕覆ものがたり」を巡っていたのです。
 巡り合いは早くも遅くもなく…満ちるが如く…今まさに…奥へ…一歩でも奥へ…好奇の心が尽きずに…奥へ…またその奥へと誘われている妙を感じています。

ひきこもごも

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2016/10/21

ミーハー

 「ミーハー」は、みいちゃんはぁちゃんの意で、女子の名は「み」「は」で始まるものが多いというものや、流行や周りの人の趣味などにすぐ同調する人を賤しめていう語だそうです。みぃはぁは「ミーハー族」でもあります。
最近「ミーハー」を愉しんでいることがあるのです。ミーハーしているのは、能楽師です。

  能楽に関しては素人ですが、運よくチケットが入手できたら観世流「能」の鑑賞に出かけます。これは完全に嵌まっているという状態です。
  何と言っても宗家の舞が素晴らしいのです。至芸というか…その精神の姿勢に圧倒されます。忘我の境地もかくや。という空間に吸い込まれていきます。
  能の公演は笛の音が揚幕の向こうから見所に響くと「始まりますよぉ」の合図です。お囃子方は橋掛かりから登場します。地謡は切戸口からが登場します。全員紋付袴で素面です。能は様式美芸能の最たるものの一つで、簡素な舞台装置で最大無限の精神空間を表現しているように思えます。
  舞台にはその後、揚幕から素面のワキ方が登場します。主役はシテといって能面をつけて後から登場します。
  最初の頃は気がつかなかったことですが、このワキ方(ほとんどが僧侶姿で登場します)に美形つまり今でいうイケメンの能楽師が目に留まるようになりました。蛇足ですが森羅万象美しいものはなんでも好きで美人も好きですが、美男子は好きになれないのです。で…美男子は歯牙にもかけませんでしたが、観ているとそのワキ方は宗家のシテに見劣りがしないのです。互角の力を纏って演じています。
  戻ってきて早速彼を調べてみました。いや恐れ入りました。「福王和幸」ワキ方福王流の嫡男でした。筋金入りです。その瞬間から「福王さま」と「さま」をつけてコロッと贔屓になりました(笑)その後「能楽」を観る基準がシテ方は宗家、ワキ方は福王和幸をと…希望しているのですが、なかなか機会が訪れません。それもまた由です。
  ところが十月二日の「追善公演」の組み合わせは宗家と「福王さま」でした。さらにどうしたことか、正面の一列目の席が取れたのです。
  当日は「福王さま」との距離は一軒ほどです。その端正な横顔。それにもまして檜の板舞台で不安定な型のままで、長時間…まばたきも数える程ひっそりと、微動もせずに、座って保っていられる修練の賜物に「うぅ〜ん」と感嘆の声を飲み込みました。(能楽師はすべての演目を覚えていますから、リハーサルは一回だけだそうです。それでいてシテとワキは「阿吽」の呼吸で舞台が務められるとは、まさにプロの芸能集団です)
  能楽師としては背が高くて目に立つ方です。あの容姿だとどの世界でも通用しそうですが、「能」という古典芸能を伝承されているからこそ応援をさせていただきたいのです。しかしすでに「福王さま」の追っかけが存在するそうです。さも有り難です。
  ミーハーは、個人的なブームですが、美形に魅せられるようになったことは老いの心変わりでしょうか。はたまた「福王さま」だけが特別なのでしょうか。とまれ、福王和幸というシテ方の逸材を眼福として「能楽」に導かれていくのも嬉しいことではありませんか。いずれにしても…身辺の華やぎは多い方が…素敵に決まっています。

ひきこもごも

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2016/09/09

9月の紫陽花

 気散じに出かけた河口湖のホテルの庭を散策していますと、立ち枯れた紫陽花の小径があって6月の盛りよりも美しく小雨の初秋に映えています。「あぁ〜綺麗」と声にでました。四季のせいでしょうか、朽ちていくものにも「美」を感じる国民だそうです。
 ところが外出から戻ってきても体調がすぐれません。「やれやれ」と医者にいけば「夏風邪」ではなく「扁桃腺」が腫れていて、ストレスと過労で体力が落ちているので食事の制限、行動の制限と注意を受けたうえで、安静にとの由でした。7月に自宅で体操をしていて背中を「胸椎椎間関節炎」で痛めてからのことらしいです。げに素人の判断は怖いことです。
 で…外出にはマスクとのことで、マスクをかけて年数回受けている「禅」の講義に臨みました。講義の内容はどんなに噛み砕いて聴いても理解不能ですが、講師の泉田宗建先生は大徳寺五百三十世・奈良の大徳寺・松源院の禅師です。
「ぎおん斎藤」誂えの法衣に、「祇園ない藤」の下駄で颯爽と登場されると、まず、出で立ち姿の眼福にあずかって、その雰囲気を共有するだけで禅が身じかになった気がするものです。
 禅は「不立文字」(ふりゅうもんじ)といって、文字言句で表現できるものではないので、素人には大変難しい学問です。
 簡単にいってしまえば、是も非も上下もない「空っぽ」を体得することです。自分が「空っぽ」になるというのはどういうことでしょうか。おこがましいですが、例えば「仕覆」を作っている時に無我の境地になる瞬間が度々あります。ただし、その時が過ぎれば、晩ご飯をつくるというような日常茶飯に戻ります。
 大悟(「無」になる、空っぽになる、宇宙とひとつになる)を得るのは苦修(くじゅう)を何年続けても凡夫は叶うものではないということは…わかっています。
 しかし立ち枯れた紫陽花の花の色を言葉でうまく表現できないように、掴めそうでいて掴めない「空っぽ」を追いかけているのは、やがて逝く「空っぽ」の世界につながる気がしているからです。禅宗という大乗仏教は死ぬまで人間形成を目指して死をもって完成するというものです。ですから悟ることはもとより、講義内容が霧散していってもいいのです。こうして日々朽ちていく花の色や、眼に映るあれやこれやを、我が身と重ねつつやり過ごしている…いまこそが「空っぽ」に近づいていることなのだと無手勝手流に解釈をして暮らさせてもらっていることが好日なのです。

ひきこもごも

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8月の憂鬱

 月初めに喉を痛めていらい薬を服用しているのに本調子に戻りません。「夏風邪は長引くから気をつけて」と忠告してくれた友人の言の通りです。代謝が悪いそうで、微熱と寝苦しさで睡眠も上手くとれません。
  今朝方は5時前に蝉が鳴きだしました。油蝉でしょうか。蝉の鳴袋に「うるさい」と一蹴したいくらいですが、命そのもので切ない気がします。油蝉だと6年間も地中にいて成虫になっても1〜2週間または一ヶ月で死んでしまうのです。
 その儚さは自身の体調と重なって明け方の思考は一気に落ち込みます。
 落ち込んだ頭でつらつら考えていますと、中国にはBC1000年ころから五行説というのがあって、基づく考えは「木・火・土・水・金」の五元素です。これを人生として解釈すれば、人間一生の過程は「青春・朱夏・白秋・玄冬」に置き換えられます。
「木」は春で色は青・青春・人年齢は30 代位まで、
「火」は夏で色は朱・朱夏・人年齢は30〜50代位まで、
「土」は中央で色は黄・土用=季節の変わり目の18日間、
「水」は秋で色は白・白秋・人年齢は50〜60代後半位まで、
「金」は冬で色は玄・人年齢は60代後半〜です。
 また古代インドのバラモンの間には理想的な人生観をさして四住期として表されてきました。
 四住期の方は、学生期(がくしゅうき)=学問・技術・教養等を備える時期、
家住期(かじゅうき)=勉学・訓練ののち家庭を持つ時期、
林住期(りんじゅうき)=勤めを果たし静かに自己の人生をみつめる時期、
遊行期(ゆうぎょうき)=家を捨て死に場所を求める放浪と祈りの時期となります。
 それぞれを自身に当てはめて考えてみると「白秋」と「林住期」に重なります。
  凡人は確としたビジョンもないままに「よくここまできたことよ」…と、お粗末さに苦笑します。後悔しても後戻りができないのが時間です。こうして微熱と暑さに怠惰な時間を浪費している間にも「玄冬」と「遊行期」は猶予なく迫っています。
 こんなときは、日本に於けるマッカーサーの執務室に飾られていたという、ドイツ出身のユダヤ系でアメリカの詩人サミュエル・ウルマンの詩にある、一節を思い出します。
「青春とは人生のある期間でなく、心の持ち方を云う。薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、燃える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
 青春とは臆病さを退ける勇気、安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる」作山宗久訳。
 この詩に鼓舞されつつ、迫ってくる老後の暮らしの理想としたいと思っていますが、とりあえず目下は健康になって9月を迎えたいと願っています。